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律桂軍総領事が『孫文と宮崎兄弟——荒尾での「千万年の友情」と中日間での千万年の友好』について講演
2022-10-27 17:44

  10月22日、熊本県日中協会と荒尾市日中友好促進会議は日中国交正常化50周年記念事業「日中文化交流in荒尾——千万年ののちまでも続く友情を」という文化交流会を共催した。浅田敏彦荒尾市長・荒尾市日中友好促進会議会長、鬼海洋一熊本県日中協会理事及び荒尾市議員、市民、中国留学生などが出席された。

  律桂軍総領事は招きに応じて出席し、『孫文と宮崎兄弟——荒尾での「千万年の友情」と中日間での千万年の友好』をテーマに講演を行った。講演の内容は次の通り。

尊敬する荒尾市市長浅田俊彦様、熊本県日中協会理事鬼海洋一様、各位ご来賓の皆様、留学生の皆さん:

  1912年1月1日夜10時、南京の総統府ホールでは、明りがきらきらと輝いています。孫文先生が正式に臨時大統領に就任されました。その式典ホールで、孫文の後に髭顔をした一人の東洋人が要人として立ち会っていました。この方が孫文の日本で最も親密な革命の友で、荒尾村出身の宮崎滔天です。

  今年の8月、私は始めて荒尾市を訪問しました。今回は2回目となりますが、来るたびに親しみ、親近感を感じ、新しい発見に出会えました。荒尾市の落ち着いた美しい町並み、素朴でやさしい人人が私に強い印象を残しています。この有名な宮崎滔天兄弟の生まれ育った地で、宮崎兄弟と孫文の出会い、知り合い、推心置腹、生死を共にするといった中日友好史上の物語が上演されました。

  孫文は偉大な民族の英雄で、偉大な愛国主義者で、中国民主革命の偉大な先駆者です。156年前の1866年、孫文が生まれた時代に、中国は帝国主義列強の野蛮な侵略と封建専制制度統治の腐敗によって、中華民族が内憂外患に陥り、人民が苦難に見舞われていました。孫文は「速やかに民衆を苦しみから救い、国を危機から抜け出そう」と呼びかけ、封建的専制統治に反対する闘争の旗印を高く掲げ、民族、民権、民生の三民主義の政治綱領を提出し、率先して「中華振興」というスローガンを打ち出し、幅広く革命思想を伝播し、続けざまに武装蜂起を発動し、革命の大勢の形成を推進しました。

  111年前の1911年、孫文を代表とする革命党の方々が世界を震撼させた辛亥革命を発動し、清王朝を倒し、中国の何千年にも亘る君主専制制度を終わらせ、近代中国の深刻の社会変革をスタートさせました。辛亥革命は中華民族の思想解放を大いに推進し、民主共和の理念を伝播し、反動統治秩序の土台に打撃を与え、それを揺り動かし、中華の大地でアジア初の共和制国家を成立しました。辛亥革命は巨大な震撼力と深刻な影響力により近代中国の社会変革を推進し、中華民族の偉大な復興の道を探索しました。習近平主席は、「孫中山先生は中国人民と中華民族に顕著な貢献を果たし、中国人民の心の中で崇高な声望を持ち、全中国人民に深く羨望と敬愛されている。」と述べました。

  孫文はその革命活動の中で、亡命や経済的支援を求めて10年間に16回も来日し、300人ほどの日本各界の人々に支援されました。その中で、全身全霊を捧げて孫文の革命活動を支援し、参加した最も典型的な人物は宮崎滔天です。

  宮崎滔天(本名:宮崎寅蔵)は、1871年に荒尾に、八男三女の末っ子として生まれました。孫文より5歳年下で、ほぼ同じ世代です。兄の宮崎八郎、民蔵、彌蔵(みやざきはちろう・たみぞう・やぞう)とともに、宮崎兄弟と呼ばれました。4人の兄弟は皆、アジアの解放と植民地化防止という大志を共有していました。八郎は自由民権運動家で、西南戦争において命を落としました。民蔵は土地の均等所有論を唱え、孫文の土地の均等論に影響を与えました。彌蔵は、中国革命を通じて理想の国をつくると主張しました。滔天は兄たちの革命思想に影響を受け、日本で改革を推進し、自由平等な社会の構築とアジア諸国の独立を実現するには、中国革命から着手すべきだと提唱しました。甲午戦争勃発後、「中国を敵とすべきではない」という理由で徴兵を拒否しました。父親の長蔵は滔天ら息子たちに対し、「豪傑になれ、大将になれ」が口癖で、滔天は幼い頃から英雄になるという夢を抱えました。その夢を叶えるために、自分の大志を託せる偉人を探してきたのです。

  1895年、孫文の一回目の武装蜂起(広州蜂起)が頓挫し海外に亡命しました。1897年9月、滔天は横浜で初めて孫文に会った時、「この人が自分の大志を託せる人なのか」と疑問を持っていましたが、中国革命の話になると、孫文の言葉が鋭く、論理が整然と組み立てられています。「一言は一言より重く、一語は一語より熱し来る」と、滔天は感銘を受け、「孫文氏は高尚な思想、輝かしい見識、遠大な志の持ち主なり。誠にこれ東アジアの珍宝なり。余はまさに現時の地位を譲って犬馬の労に服せん、無ければすなわち自ら奮って大事に任ぜんのみ」と心から敬服し、孫文と刎頸の交わりを結びました。

  2ヵ月後の1897年11月、孫文は清政府と日本の警察の手配から逃れるため、滔天の招きに応じて初めて宮崎家を訪れ、10日間滞在しました。その10日間は、ずっと宮崎家に引きこもり、西洋の蔵書を読み、滔天と中国革命の手段と行方、そしてアジアの振興などについて、徹夜して筆談し合いました。滔天は、孫文の革命思想に共感を強く覚え、彼の革命理念こそが、中国、日本そしてアジアをヨーロッパ列強に分割される運命から救えると信じ、自らの生涯を孫文の革命運動支援に捧げることを決意するに至りました。

  滔天は著作『三十三年の夢』にこう書いていました。「願わくば共に一生を賭けして中国に進入し、思想を百世紀にし心を中国人にして、英雄を収攬してもって継天立極の基を定めん」。これは滔天が中国革命へ投身した理念です。彼はアジアの自由と解放の志を抱いて、中国革命を支援するために、私利私欲を度外視して東奔西走、東アジア各地を駆け巡りました。孫文が多くの失敗を経験し、状況が最悪のときでさえ、滔天は長きにわたり物質的にも精神的にも支え続けました。

  滔天は興中会の会員で、「中国同盟会」の発足を後押し、特別な貢献をしました。彼は中国の革命志士と共に戦い、何度も危険にさらされました。孫文は滔天に資金の工面や武器弾薬の調達の全権をゆだね、滔天は困難や危険をなめ尽くし、その使命をはたし終えました。

  1900年、滔天は孫文と共に広東の恵州蜂起を計画し、参加しました。滔天の孫、宫崎蕗苳(ふき)の話によりますと、滔天は恵州蜂起の経費を募るため、先祖伝来田畑を売りつくしました。先代からの土地、田畑、屋敷、骨董類が、次々と革命のためのお金となって消えていきました、家人は貧困のどん底におりました。滔天は「革命のためのお金はできるが妻子を養う金はない、お前はお前でどうにかしておけ」と妻の槌(つち)に言い、お嬢様育ちであった槌は貧乏に耐え、自ら働いて3人のこどもを育てました。当時荒尾の浜辺で貝殻を焼き、石灰を作って売る人がいました。槌も石灰焼きして生計を立てました。生活に追われながら槌が夫の理想を理解し、革命資金を調達することに明け暮れました。

  滔天は辛亥革命の大黒柱のもう一人黄興を支持するため、黄興の息子の黄一欧を預かりました。孫文と黄興二人の間をとりもって、固く手を握らせたのも滔天でした。孫文は滔天を「今の侠客なり」、「識見高遠,抱負凡ならず」とほめ、「推心置腹」と題字しました。

  1911 年 10 月 10 日に辛亥革命が勃発した後、滔天はすぐに中国に駆けつけたがっていました。隣人の助けのおかげで、旅費のない彼は旅に出ることができ、香港まで孫文先生の帰国を出迎え、共に中国を北上し上海に戻り、孫文の臨時大統領の就任式に立ち会いました。

  孫文が日本へ亡命した時も、貴賓として訪日した時も、宮崎家と荒尾の村人たちに歓待され、忘れられない印象を残しました。史料によると、孫文が初めて荒尾に来られた時、宮崎家はとても貧乏でしたが、温かいおもてなしを受けました。田舎で手に取れるものであれば、ありったけの食材を孫文に用意し、極上の刺身のほか、煮魚やうなぎなどいろいろありました。孫文は鶏肉が大好きなようで、宮崎家は毎日鶏肉を料理に入れておきました。

  孫文が臨時大統領を辞任した後、1913年3月、全国鉄道督弁の身分で準国賓として訪日した際、二度目に宮崎家を訪れました。熊本日日新聞の報道によると、孫文は宮崎家で、集まってきた滔天の家族と荒尾村の人たちに演説を行い、「17 年ぶりに予は荒尾村に来り、尚記憶に存せる風物に接して歓喜に耐えず、宮崎寅蔵(滔天)君並びに其亡彌蔵君とは、予は深き親交あり、そして、両君は我国のために大いに尽力せられたる人にして、両君(滔天と彌蔵)と予のごとき交誼を日華両国民が維持するを得ば、千万年の後までも両国家の提携融和を図る得べし、又、両国将来の発展と幸福とを表示すべしと信ず。正義人道を重んじ、隣国の為にまでも尽力せらる宮崎君のごとき義士を出せる荒尾村に対し、また、同村民に対して予は深く感謝する」と語りました。演説後、皆は前庭の梅の木の前で記念写真を写りました。

  1921年、滔天は孫文の北伐を支援するために、中国へ最後の訪問をし、帰国した翌年に亡くなりました。孫文はそれを聞いて悲しみの極みで、上海で「宮崎滔天先生追悼大会」を自ら発起し主催しました。孫文は滔天を「日本の大改革家」、中国革命に「絶大の功績」、彼の逝去は中国人民にとって「良き友を失った」と称え、悲痛に嘆きました。

  滔天の人生は「英雄」たる「大将」たる夢を叶えたと言えるでしょう。宮崎兄弟と孫文先生が亡くなられてからずいぶん歳月も経ちましたが、彼らの友情は千万年の後までも続き、中日友好の歴史に永遠に銘記され、いつまでも後の世代に記念されるでしょう。また、宮崎兄弟を記念する際、陰で黙々と多大な努力と犠牲を払って、宮崎兄弟の革命を支えていた滔天夫人、民藏夫人など宮崎家の偉大な女性たちにも感謝・記念すべきです。 そして、孫文が二度目の荒尾訪問の際にも語ったように、宮崎兄弟を育てた荒尾村、荒尾村長並びに多くの荒尾村民にも感謝すべきです。

  さらに重要なことは、私たちが孫文と宮崎兄弟の千万年の後まで続く友情とその精神を受け継ぎ、 中日両国の世世代代の友好と千万年の後まで続く善隣友好関係の実現に向けて共に取り組んでいくことです。中日双方は、両国の指導者が達成した共通コンセンサスの精神に基づき、中日国交正常化50周年を契機に、新しい時代の要求に相応しい中日関係の構築に努力すべきです。

  新しい時代の中日関係を構築するには、まず相互理解と信頼を増進しなければなりません。当時、孫文と宮崎滔天の相互協力はお互いの知り合いから始まったのです。 初対面の時、滔天は若き31歳の孫文が中国革命をリードする重任が担えるか疑問を抱いていましたが、深く交流の末、生死を共にできるほどの親友になりました。現在、日本は新しい資本主義を模索しており、中国は新しい時代に入り、社会主義現代化国家を全面的建設し、日進月歩で発展しています。ほとんどの日本人は主に日本メディアの報道で中国を認識しています。しかし、メディアの報道は客観的、全面的とは言えません。そのため、度々中国への誤解を招き、一部の人は「中国脅威論」を煽っています。いわゆる「中国脅威論」は明らかに事実ではありません。習近平総書記は先日開催された中国共産党第 20 回全国代表大会で、「中国は独立自主の平和外交政策を揺ぎこくなく堅持し、平和共存五原則をふまえて各国との友好協力を発展させ、対外開放の基本国策を堅持し、世界の人々と手を携えて、共に人類のいっそう明るい未来を切り開いていきます」と強調しました。歴史を見れば、中国の国力最も強い、盛唐の時代も中華人民共和国成立73年以来の持続的発展も、日本にもたらしたのは脅威ではなくチャンスでした。未来を展望すれば、中国は社会主義現代化国家の全面的建設の過程において、中日協力により広い発展の空間を切り開き、利益をより多くもたらすでしょう。

  新しい時代の中日関係を構築し、中日世世代代友好の大きな目標を実現するには、実際的な行動と確固たる努力が必要です。滔天は『三十三年の夢』の序言で「理想は理想なり、実行なき理想は夢想なり」と書いていました。中日世世代代友好を実現するために、双方は各分野での交流を全力で展開させ、青少年大交流、文化大交流、経済大交流、地方大交流の新時代を切り開くべきです。

  新しい時代の中日関係を構築するには、戦略的ビジョンと広い視野を持つ孫文や滔天等の革命家に学び、地域的、世界的な課題での協力を強化し、多国間主義と自由貿易を実行し、共にアジアの振興に尽力し、アジア運命共同体と人類運命共同体の構築を推進し、アジアの新たな分裂と世界の新たな冷戦を防ぐように努力しなければなりません。

  青年は国家の希望であり、中日友好の未来を背負っています。在日の中国留学生が、孫文の中華民族の復興のために尽力する揺るぎない崇高な精神を学び、継承し、中国の近代化建設に積極的に参加し、中華民族の偉大な復興に貢献するよう望んでおります。同時に、孫文と宮崎兄弟の友情の精神を学び、継承し、中日間での理解と友情の架け橋として活躍されることを期待しております。

  友人の皆様、学生の皆さん、125年前の荒尾はまだ小さな漁村でした。宮崎滔天と孫文がこの地で親しくなり、生涯一緒に奮闘してきたことで、荒尾市は孫文、辛亥革命、中日友好と切っても切れない絆を築いたのです。孫文は中国の民主主義革命に不滅の偉業を成し遂げ、辛亥革命は中華民族の思想解放と社会変革を大いに促進させ、中日友好は二千年以上の歴史を持ち、千万年までも続いていく偉大な事業です。よって、荒尾には、特殊な歴史的価値、現実的価値、文化的価値を持っていると言えます。

  荒尾市日中友好促進会議が引き続き各界の有識者と共に、中国の関係省、市、機構との交流と協力を強化し、歴史的、現実的、文化的な価値を生かすよう期待します。たとえば、関連する共同研究を深め、荒尾が孫文と辛亥革命に関する研究でより大きな役割を果たし、より大きな影響を与えることを望んでおります。また、義侠の滔天をテーマに、映画やテレビ作品の制作を推し進めることもいいのではないでしょうか。もちろん、私たちは「宮崎兄弟生家資料館」が引き続き維持され、より多くの観光客が訪れて見学して、中日友好の永遠の拠点として重要かつ積極的な役割を果たすことを心から願っています。

  友人の皆様、学生の皆さん,孫文が宮崎家を訪れた際の記念写真の背景に写っている梅の木は樹齢約300年になると言われますが、今も生い茂っています。この木から接ぎ木し育てた苗木は駐福岡総領事館の庭で植えられ、すくすくと成長し、荒尾で培ってきた中日友好の精神は益々広く共鳴されることを象徴しています。中日国交正常化50周年を迎えるにあたり、孫文と宮崎兄弟の友情が千万年の後まで続け、中日両国人民が世世代代友好していくことを心から願っています。

  ご清聴ありがとうございました。

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